推し飛鳥人総選挙TOP
推し飛鳥人総選挙投票結果

アイコン
第1位 第41代 持統天皇(鸕野讃良皇女) じとうてんのう (うののさららのひめみこ)

生没年:645(大化元)年~703(大宝2)年
在位:690(持統4)年~697(持統11)年
父:天智天皇、母: 蘇我遠智娘

 持統天皇(鸕野讃良皇女)は日本の第41代天皇で、天武天皇の皇后です。正史には天武天皇を補佐し、自身が退位したあとも孫の文武天皇と並んで政務をしたと書かれています。在位中のみならず退位後も政治に深く関わり続けました。
 天武天皇の崩御後は、息子で皇太子だった草壁皇子が27歳で早世した後、自らが即位。藤原京の造営と遷都や、大宝律令の制定など、これまでの政策を進めました。崩御後は天武天皇が埋葬されている檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)に追葬されています。

アイコン
第2位 聖徳太子(厩戸皇子) しょうとくたいし (うまやとのみこ)

生没年:574(敏達3)年~622(推古30)年
父:用明天皇、 母:穴穂部間人皇女

 推古天皇の時代、皇太子として天皇や蘇我馬子とともに政治を行いました。この時代に冠位十二階制や十七条憲法の制定。遣隋使を派遣し、対等な外交を試みながら、大陸の進んだ文化や制度を取り入れました。
 幼少期から仏教を篤く信仰し、多くの寺院を建立するなど、仏教興隆に尽力したことでも知られています。「生まれてすぐに言葉を話すことができた」「10人の話を一度に聞くことができた」などの超人的なエピソードが伝わっています。

アイコン
第3位 大津皇子 おおつのみこ

生没年:663(天智2)年~686(朱鳥元)年
父:天武天皇、母:大田皇女

 大津皇子は天武天皇と天智天皇の皇女である大田皇女の間に生まれました。同母姉に大伯皇女がいます。
 天武天皇・持統天皇の子・草壁皇子につぐ地位にあり、壬申の乱では、天武天皇と行動を共にし、天武 12 (683)年に朝政に参加しました。しかし、天武天皇の崩御後、川島皇子の密告により謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれました。『懐風藻』では、たくましい容姿で、文武ともにすぐれ、多くの人々の信望を集める人物だったとされています。『万葉集』によれば、大津皇子の屍は二上山に改葬されたとあります。

アイコン
第4位 有間皇子 ありまのみこ

生没年:640(舒明12)年~658(斉明4)年
父:孝徳天皇、母:小足媛

 有間皇子は飛鳥時代の皇族です。5歳のときに乙巳の変が起き、皇極天皇の退位後、有間皇子にとっては父にあたる軽皇子が孝徳天皇として即位しました。しかし、653(白雉4)年に、皇太子・中大兄皇子が対立。孝徳は事実上廃帝となり、翌年崩御しました。
 父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれることを避けて心の病を装い、療養と称して牟婁の湯(和歌山県白浜)に赴くなどしています。しかし、658(斉明4)年、中大兄皇子に対して謀反を起こそうとしていると密告され、19歳の若さで絞首刑にされました。
和歌山県海南市に有間皇子の墓があります。

アイコン
5位 額田王 ぬかたのおおきみ

生没年:不明
父:鏡王

 額田王は飛鳥時代に多くのすぐれた歌を残している女性です。額田王については『日本書紀』には「天皇(天武天皇・大海人皇子)、鏡王の娘の額田姫王を娶り、十市皇女を生む」とある以上のことはわかっていません。しかし、『万葉集』に、白村江の戦いに向かう最中に「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」さあ、今漕ぎ出そう!と軍の士気を上げる歌などがあり、宮廷歌人だったと思われます。
 『万葉集』に額田王が近江天皇(天智天皇)を思って作った歌もあることなどから、額田王・中大兄皇子・大海人皇子の三角関係にあったのではないかと想像され、後世で創作が多数生まれました。

アイコン
6位 蘇我入鹿 そがのいるか

生没年:不明~645(大化元)年
父:蘇我蝦夷

 飛鳥時代の大豪族・蘇我氏で、蘇我稲目、馬子、蝦夷と続いて、最高執政官の一つ大臣(おおおみ)の座につき、権力をふるいました。甘樫丘に館「谷(はざま)の宮門」を建て、子どもたちを「王子(みこ)」と呼ばせ、聖徳太子の一族である上宮王家一族を滅ぼしました。しかし、645(皇極4)年、乙巳の変により、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足によって暗殺されました。
 飛鳥寺の近くには蘇我入鹿の首塚と伝わる石塔があります。また、橿原市には入鹿を祭神とする入鹿神社があります。

アイコン
7位 第38代 天智天皇(中大兄皇子) てんじてんのう (なかのおおえのおうじ)

生没年:626(推古34)年 ~671(天智10)年
在位:668(天智7)年~671(天智10)年
父:舒明天皇、母:皇極天皇(斉明天皇)

 中大兄皇子(天智天皇)は日本の第38代天皇で、父は舒明天皇、母は皇極天皇です。国政を専横していた蘇我宗本家を645(皇極4)年に「乙巳の変」で滅ぼしました。天皇中心の政治体制を取り戻した中大兄皇子は、母の斉明天皇の元で、土地や人民の管理しなおし、新しい税制の導入など大化の改新を推進しました。白村江で唐と戦って破れたあとは国防政策にも力を入れました。長く皇太子の立場にありましたが、668(天智7)年に近江大津宮に遷都した後、天智天皇として即位しました。

アイコン
8位 高市皇子 たけちのみこ

生没年:654(白雉5)年~696(持統10)年
父:天武天皇、母:尼子娘

 高市皇子は天武天皇の長男です。壬申の乱では近江大津宮を脱出して父の大海人皇子軍に合流し活躍しました。母が地方豪族出身者であるため、他の異母弟よりも序列を低くおかれていましたが、草壁皇子、大津皇子らが亡くなり、持統天皇が即位すると、政務の最高責任者である太政大臣に任命されました。
 696(持統10)年に亡くなったときの『日本書紀』には、「後皇子尊(のちのみこのみこと)薨りましぬ」と記されています。「尊(みこと)」は非常に高い尊称で、厚く信任されていた様子がうかがえます。奈良時代に活躍する長屋王の父です。

アイコン
第9位 第33代 推古天皇(額田部皇女) すいこてんのう(ぬかたべ)

生没年: 554(欽明15)年~628(推古36)年
在位:592(崇峻5)年~628(推古6)年
父:欽明天皇、母:蘇我堅塩媛

 推古天皇は日本史上初の女性天皇です。夫は第30代敏達天皇。同母兄の用明天皇死後に39歳で即位しました。『日本書紀』では容姿端麗で頭も良く、政治力も優れていたと記されています。
 摂政の厩戸皇子や蘇我馬子と共に、冠位十二階制や十七条憲法の制定などの国の基盤となる制度を整え、仏教興隆政策をとりました。また、遣隋使を派遣して中国との外交を行い、律令制や税制、暦、天文学など、新しい技術・文化も取り入れました。

アイコン
第10位 第40代 天武天皇(大海人皇子) てんむてんのう (おおあまのおうじ)

生没年:不明~686(朱鳥元)年
在位:673(天武2)年~686(朱鳥元)年
父:舒明天皇、母:皇極天皇(斉明天皇)

 大海人皇子(天武天皇)は舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子で、天智天皇の弟です。天智の死後、壬申の乱で甥の大友皇子と争って勝利し、その翌年に飛鳥浄御原宮で即位しました。飛鳥浄御原律令の編集を命じ、八色の姓の制定や官位制度の改訂をするなどして身分制度を再編しました。国史の編纂や伊勢神宮の整備など、後世の文化面でも改新を行い、日本古代国家の基盤を築きました。
 崩御後、事業は皇后の鸕野讃良皇女(持統天皇)によってさらに推し進められました。明日香村には、天武・持統夫妻が合葬されている檜隈大内陵があります。

アイコン
第11位 柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ

生没年:不明
父母:不明

 柿本人麻呂は、日本最古の歌集『万葉集』を代表する歌人です。その数約450首。正史には名が残っておらず、作品が残るのみのため、生涯や身分は分かっていません。歌の内容に持統朝から文武朝にかけて皇族・政界に近しい内容で読まれたものが多いことから、宮廷歌人だった可能性が考えられます。
 平安時代には藤原定家によって小倉百人一首の3番として「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」の歌が採用されました。後世への影響が大きく、歌聖や和歌神として讃えられている人物です。

アイコン
第12位 物部守屋 もののべのもりや

生没年: 不明~587(用明2)年
父:物部尾輿、母:弓削倭古娘(阿佐姫)

 物部氏は日本神話に登場する鐃速日命(にぎはやひのみこと)を祖先とする一族で、最高執政官の一つ「大連」を独占する有力な軍事氏族でした。物部氏は強固な排仏派であり、同じく最高執政官である「大臣」で崇仏派の蘇我氏と対立。587(用明2)年、崇仏の意向を示した用明天皇に守屋が反対すると、蘇我馬子が戦いをしかけ(丁未の乱)、守屋は戦いの中で討たれました。物部守屋の墓と伝わるものが大阪府八尾市にあります。

アイコン
第13位 藤原鎌足 ふじわらのかまたり

生没年:614(推古22)年~669(天智8)年
父:中臣御食子、母:大伴智仙娘

 日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖となる人物です。中大兄皇子(後の天智天皇)の腹心として活躍し、645(皇極4)年に乙巳の変で当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺し、天皇中心の政治体制を取り戻します。その後、大化の改新を推進し、律令体制の基礎を築きました。彼の死の間際には、天智天皇から最上位の冠位「大織冠」と大臣の位を授かり、「藤原」の姓を賜りました。鎌足が中大兄皇子と密談を交わした多武峯(奈良県桜井市)には談山神社があり、祭神として祀られています。

アイコン
第14位 膳部菩岐々美郎女 かしわでのほききみのいらつめ

生没年:不明~622(推古天皇30)年
父:膳傾子(かしわでのたぶこ)
別名: 膳大娘、膳大刀自、菩支々弥女郎、干食王后

 聖徳太子(厩戸皇子)の4人の妻のうちの一人です。他の妻は推古天皇の皇女や孫、蘇我氏娘など身分が高い中、膳部菩岐々美郎女は豪族出身でした。しかし、太子が薨去する前に病床で看病していること、同じ墓に葬られたことなどから、聖徳太子にもっとも愛された妃であろうと言われています。看病につかれたのか、太子の病が感染病だったのか、太子が薨去する前日に亡くなりました。大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長陵(墓)に、聖徳太子、太子の母の穴穂部間人皇女とともに合葬されています。

アイコン
第15位 大伯皇女 おおくのひめみこ

生没年:661(斉明7)年~702(大宝元)年
父:天武天皇、母:大田皇女(天智天皇の娘・持統天皇の同母姉)

 白村江の戦いのために、難波を出航した先の岡山県邑久郡の海の上で生まれた、天武天皇皇女。父・天武天皇の時代に、未婚の皇族女性が天皇に代わって伊勢神宮の祭祀をする「斎宮」が制度化されました。大伯皇女は673(天武2)年、13歳で卜定され、14歳で伊勢(斎宮)に移り、制度化された後の初代の斎宮を務めました。
 686(朱鳥1)年、26歳、天武天皇の崩御後、弟の大津皇子が謀反の疑いで自害させられたため、退下します。『万葉集』に亡くなった大津皇子を想って読んだ歌が残っています。

アイコン
第16位 十市皇女 とおちのひめみこ

生没年:不明~678(天武7)年
父:天武天皇、母:額田王

 十市皇女は天武天皇の第一皇女で、母は歌人として名高い額田王です。天智天皇の皇子である大友皇子(弘文天皇)の正妃となり、葛野王を産みました。しかし、672(天武元)年の壬申の乱では、父と夫が戦うという事態になり、父方に従いました。
 乱後は父のもとに戻り、675(天武4)年には阿閇皇女とともに伊勢神宮へ参詣しています。678(天武7)年に宮中で急死しました。十市皇女の死を悼み、高市皇子が「彼女を蘇らせたい」と詠んだ歌が『万葉集』に残っています。

アイコン
第17位 小野妹子 おののいもこ

生没年:不明
父:小野仲若子

 小野妹子は飛鳥時代の役人です。厩戸皇子の命により、607(推古15)年に遣隋使として隋(現在の中国)に派遣された小野妹子は、隋の裴世清を伴って帰国しました。このとき、妹子は皇帝・煬帝からの返書を紛失するという重大な失態をしたことになっていますが、『隋書』には日本の国書に煬帝が不快感を示したと記録されており、渡せる返書がなかったのかもしれません。妹子は恩赦され、その後も再び遣隋使として隋に渡っています。華道池坊で「華道の祖」ともされている人物です。

アイコン
第18位 蘇我馬子 そがのうまこ

生没年: 不明~626(推古34)年
父:蘇我稲目

 天皇を補佐する大臣(おおおみ)の地位につく蘇我稲目の子として生まれ、自身も敏達天皇の時代に大臣に就任しました。587(用明2)年に崇仏論争で対立していた排仏派の物部守屋を倒し(丁未の乱)、蘇我氏の権力を確立。592(崇峻5)年に姪を推古天皇として擁立して、摂政の厩戸皇子とともに政治運営を行いました。また、飛鳥寺を建立するなど仏教興隆にも貢献しました。明日香村の石舞台古墳は馬子の墓ではないかといわれています。

アイコン
第19位 大友皇子(弘文天皇) おおとものみこ (こうぶんてんのう)

生没年:648(大化4)年~672(天武元)年
在位:671(天智10)年~672(天武元)年
父:天智天皇、母:伊賀采女宅子

 大友皇子は天智天皇の皇子です。皇子の父親である天智天皇は、長らく大海人皇子を皇太弟として後継者として扱っていましたが、大友が成長すると太政大臣に任命するなど、息子に期待を寄せます。死の直前の天智天皇は、大海人に後継者になるよう打診しましたが、大海人は辞退し、大友皇子が近江朝の後継となりました。
 しかし、天智が亡くなった翌年の672(天武元)年、大友皇子と大海人皇子の間で後継を巡って壬申の乱が勃発。大友皇子は敗北し、「山前(やまさき)」の地で自害に追い込まれました。明治時代に「弘文天皇」として正式に天皇とされました。

アイコン
第20位 第43代 元明天皇(阿閇皇女) げんめいてんのう (あへのひめみこ)

生没年:661(斉明7)年~721(養老5)年
在位:707(慶雲4)年~ 715(和銅8)年
父:天智天皇、母:蘇我姪娘

 元明天皇(阿閇皇女)は日本の第43代天皇で、天智天皇の皇女です。天武天皇と持統天皇の皇子である草壁皇子の正妃となり、氷高皇女(元正天皇)や珂瑠皇子(文武天皇)らを産みました。しかし、天武の崩御後に即位するはずの夫は即位することなく早世します。義母で姉の持統天皇が即位し、次に息子が文武天皇として即位します。しかし、文武天皇も25歳の若さで崩御し、元明天皇が皇位を継承しました。元明天皇は、『古事記』や『風土記』の編纂を命じました。また和同開珎の鋳造や平城京への遷都も行っています。

アイコン
第21位 第35代 皇極天皇  / 第37代 斉明天皇(宝皇女) こうぎょく/さいめいてんのう (たからのひめみこ)

生没年:594(推古2)年~661(斉明7)年
在位:642(皇極元)年~645(皇極4)年、655(斉明元)年~661(斉明7)年
父:茅渟王、母:吉備姫王

 皇極天皇(重祚後は斉明天皇)は、天智天皇や天武天皇の母親です。夫である第34代舒明天皇が死去したあと即位しました。645(皇極4)年、乙巳の変が皇極の目の前でおきました。息子の中大兄皇子(後の天智天皇)らが入鹿を暗殺、蝦夷が自害して、国政を専横していた蘇我本宗家が滅びた事件です。この乙巳の変後、皇極は一度退位します。しかし、次代の孝徳天皇が中大兄皇子と対立すると、ふたたび斉明天皇として即位。百済国救援のために赴いた九州で病没しました。
 皇極として即位中に雨乞いで雨を降らせて、巫女的権能を発揮しています。また、重祚後にはしばしば大規模な土木工事を行わせたことが『日本書紀』に記されています。

アイコン
第22位 草壁皇子 くさかべのみこ

生没年:662(天智元)年~689(持統3)年
父:天武天皇、母:持統天皇

 草壁皇子は天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子です。
 679(天武8)年には吉野の盟約で父母の天武・持統、草壁を含む6人の皇子たちが互いに助け合うことを誓いあい、天武9(681)年に皇太子になりましたが、即位することなく689(持統3)年に27歳の若さで病死しました。『万葉集』には、草壁皇子の死を嘆く歌が23首掲載されており、従者たちにまで慕われていた様子がうかがえます。
天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿閇皇女(後の元明天皇)を妃に迎え、子には文武天皇と元正天皇がいます。

アイコン
第23位 善信尼 ぜんしんに

生没年:不明
父:司馬達等

 善信尼は司馬達等の娘で名前は嶋といいます。日本で最初の僧の一人です。父の司馬達等は渡来人で、『扶桑略記』によれば、522(継体13)年には草堂に本尊を安置し礼拝していたとあり、朝廷に仏教が伝来する以前から熱心な仏教徒でした。
 584(敏達13)年、蘇我馬子が、百済人所有の2体の仏像をもらい受け、高句麗の僧・恵便を師として、善信尼ら3人の尼僧を得度させました。疫病が流行した年には廃仏派の物部氏らに鞭うちにされるなど迫害を受けましたが、15歳で百済へ留学し、受戒の法を学びました。17歳で百済から帰国。桜井寺(豊浦寺)に住持しました。

アイコン
第24位 山背大兄王 やましろのおおえのおう

生没年:不明~643(皇極2)年
父:厩戸皇子、母:蘇我刀自古郎女

 山背大兄王は厩戸皇子(聖徳太子)の息子です。推古天皇の死後、次期天皇の有力候補とされましたが、蘇我蝦夷の推す田村皇子(後の舒明天皇)が皇位につきました。数年後、蝦夷の息子である入鹿は、古人大兄皇子を擁立するため、斑鳩宮にいた山背大兄王を襲撃します。山背大兄王は一度は生駒山まで逃れましたが、「自分のために人民を死傷させることは望まない」といい、斑鳩寺(現在の法隆寺)に戻って妻子と共に自害しました。
 『上宮聖徳法王帝説』では、「賢尊の心があり、身を捨てて人民を愛した(此王有賢尊之心棄身命而愛人民也)」と記されています。

アイコン
第25位 五百重娘 いおえのいらつめ

生没年:不明
別名:藤原夫人、大原大刀自
父:藤原鎌足

 五百重娘は藤原鎌足(当時は中臣鎌足)の娘で、姉の氷上娘とともに、天武天皇の夫人になりました。天武天皇との間に新田部親王を産んでいます。大原大刀自と呼ばれていること、『万葉集』巻2・103番の歌から、婚姻後も藤原氏の拠点である大原(高市郡明日香村小原、県立万葉文化館のあたり)に住んでいたと考えられています。
 天武天皇の崩御後は、藤原不比等と同父兄弟婚をしたようで、藤原麻呂を産んでいます。藤原麻呂は不比等の息子で、737(天平9)年に亡くなるまで権勢を奮った藤原4兄弟の末子です。